いじめの線
インスタで質問を募集したら、
こんな質問が届きました。
「どこからがいじめなんやろう?」
なんでゆうやさんに聞いてきてくれたかは、なんとなく分かる。
利用者さんの中で多いのはもちろん
"うけた"側のひとたち。
"うけた"ひとも"やった"ひとも
質問くれた方が言うように
「どこまでが」境界線なんか分からんことが多い。
結論は、
"うけた(とる)" 実感のある人が
"やった(とる)" 人の場所に行きたくなかったり、
会いたくなくなってたら
もう「いじめ」が成立しとるんじゃないかな?
気持ちがネガティブになれば。
いじめもパワハラもそうやけど、
「一方通行」なものは、全ていじめなのかなと。
一方通行になっとることを
"うけた(とる)"人も
"やった(とる)"人も
どこかで気づいとるはず。
でも合理化してしまうんさな。
「相手は正しいことを言ってるだけだから、言われて当然なんだ」
とか
「自分の事を思って言ってくれてるんだ」
って思うように努力をする。
でも「努力の違和感」に気付いてる。
頭では合理化しようとしても
身体がその人がいる場所に行きたくなかったり、
会いたくなかったら、
それはもう身体が言っとることの「勝ち」。
いじめが成立しちゃっとる。
俺はいじめを"うけた"ことはないけど
たぶんいじめを"やってた"ことはある。
いやーーどっちもあるかなー。
どっちも「親」にも「友達」にも言えやんだ。
違和感を感じとったからやろうな。
自分で。
こうゆう質問をしてくれる人ってのは、「人の痛みが分かる人」。
だから、
自分は加害者にならんと思う…、敏感やでな。
そして「人の痛みを分かる人」しか、
人を救ってあげる事ができない事が多い。
いじめが生まれてしまうことって、どうやら防げやんらしいんよな。
いろんな情報を見て知ろうとした時期あったけど。
生まれてしまうことは防げやんくても、
いじめを受けとる人を
察知して
声をかけたり
逃してあげたり
することはできる。
なんなら、そうゆう人を増やすことはできる。
だから、質問にしてくれたことが
すごい嬉しかった!
ありがとう!!
このブログを読んで
"うけた(とる)"人
"やった(とる)"人でなく、
"すくう"人が一人でも多く増えますように。